塀と垣
向こう側を覗き見て、ときに推し量る

結界のタイプ
権威や立場を象徴する結界
両端の世界と、結界を形作る行為
公
先に進まない
覗き見る
推し量る
窺う
神域
プライベート
向こう側を覗き見て、ときに推し量る
かきは「限る」を語源とする。いずれかの意味で空間を限っている物体を指す。初期の垣は竹・草木・芝を利用した簡単なものであった。
現代の壁のような向こう側の空間が完全に遮断され、人が押しても倒れないような高くて強固な垣ではまったくなかった。その気になれば容易に超えられる垣であり、多分に向こう側の気配を窺うことができる。そのため限る程度からいえばかなり不完全なものであったと言える。かなりお人好しな垣であったのだ。人々はこうした垣ではその向こう側を常に意識していただろうし、意識せざるを得なかったのではないか。
では初期の垣の用途は何だったのであろうか。それは神社におけるものだったと考えられる。神社において不可欠な要素は神体と垣であった。社殿は必ずしも必要ではなく、社殿がない神社も存在した。しかし垣は正常な聖域であることを示すものあったために、最低限そのことを視覚的に示す役割を担っていた。そのために物的に超えられない障害物とはならなかったのである。
絵巻物を見ると、「のぞき」が散見される。板の隙間や網代の隙間から、二三人と大っぴらに、家の様子をうかがいながら楽しんでいる図が見受けられる。「かいまみる」とは「垣間見る」ということで、中の様子を垣の外から覗くことだが、覗かれるような垣根を作っている限り、この行為も許されていたと考えられる。そしてこの性格はのちになって垣が壁のように分厚く高くなっていったときでさえも受け継がれることとなった。
また上記に加え布・幕で垣とするものも見られた。「古事記」にが出雲の須賀の地に宮殿を作ったとき歌ったという歌が載せられている。
出雲たつ 出雲八重垣 つまごみに 八重垣つくる 八重垣を
雲が幾重にも湧く出雲の地で、妻との新居によい場所を見つけた。妻のために垣根を幾重にも造ろう。
とある。ここでの八重垣は寝室を区切るために垂れる布であると考えられる。あくまで完全に空間を遮断するものではなく、緩やかな境界をつくるための装置として垣が扱われていたことがわかる。元来塀は垣の一種で特に目隠しの用をなしているものを指していた。不完全にしか隠れない垣に対して、はっきりと目隠しの機能を与えたものが塀である。
英語で言うところの塀はwallに相当する。日本語ではfenceとwallとは混同されているが、fenceは向こう側を見透かすことができる垣を指し、wallは向こう側を見透かすことができない垣を指している。一般に垣という日本語はこの両者を含んでいるが、英語にはそのまま垣に相当する訳語はないと言える。
垣という言葉は古墳時代から存在したと考えられているのに対して、塀はそれよりも後、すなわち仏教建築渡来以後のことである。完全に目隠しになる塀が現れたのは仏寺の境内が最初で、ついで宮殿に使われ始めた。実際のところ、「日本書紀」や「古事記」には垣の文字が現れるが塀なる文字はまだ現れていない。そして飛鳥・奈良時代になると築地塀が現れる。
次の平安時代になると塀の文字は、垣ほどではないがかなり多くあらわれるようになる。「源氏物語」では「西の渡殿のまえにある塀の東ぎわをおしなべて野におつくりになりました」とある。さらに時代を下って南北朝時代から戦国時代にかけての動乱時代においては城の塀が頻繁にあらわれた。また塀をつくることは「塗る」と言われていたことがわかり、これは城の塀が土壁を原則としていたからである。
このように塀は、垣から時代とともに発展していった歴史的事情が存在し、そのために塀は垣的な発送でデザインされ、垣に似た性格をもたせることになった。塀は目隠しとして作られるものの、完全に区切るのではなく、むしろ向こう側にはある種の空間が存在し、それを暗示するデザインを尊しとした。外の粋な黒塀越しに見える庭の松のことである「見越しの松」はまさにそうした心の現れである。日本において塀はこのような観点からみると結界の一種とみなせるのではないだろうか。