車止め

心構えの心構え

結界のタイプ

見立てることで発生する結界

両端の世界と、結界を形作る行為

日常

止める

降りる

横を通る

自制する

先に進まない

神域

心構えの心構え

寺社仏閣の門の前に静かに佇む、門に対してはすこし心もとない柵。人の立ち入りを禁ずるには小さすぎ、かといって存在感がないといえば嘘になる。人の立ち入りを完全に禁じるためのものとは異なり、一見するとその目的が不明確に思えるかもしれない。そもそも鳥居は別としても、寺は立派な山門があるのだから、人が入ってほしくないときにはその立派に構えた門の扉を閉めれば良いことである。それに対して、この柵は一体どのような役割を果たしているのだろうか。

この柵は「車止め」として知られ、その名の通り、車や他の乗り物の侵入を阻むための結界としての役割を果たしている。現代の日本では、自動車やバイクを主な対象としているが、古くは馬や牛車、さらには人々が手で引く籠もその対象に含まれていたと考えられる。馬や籠相手に考えてみると、この柵はなんとも心細い柵であろうか。通ろうと思えばその柵を乗り越えずとも、横に空いた隙間からすり抜けられることは想像に難くない。もっと言えば単なる仮設のフェンスであるから少しぶつかるだけで簡単に倒れてしまう。

ここで結界と呼ばれる所以が見えてくる。心のけじめによって機能している境界なのだ。物理的には安易に乗り越えることができても、これから神域に入るのであるという心構えを持たなければほんとうの意味でこの境界線を超えることはできない。この暗黙の共通理解があるからこそ重要な構造物として寺社に佇むのである。

この柵の手前、もしくは奥には必ずと言っていいほど門がある。鳥居などの項目でも触れるが、それぞれの門や鳥居も神域と常世を区切る結界である。こうなると同じような機能の結界が重複していることになる。一方でこの車止めがあることによって、徐々にこれから神聖な場所に踏み入れるのであるという意識を醸成することができるとも言える。心構えの心構えといったところだろうか。

神社参拝でドライブスルーとは聞いたことがないが、非常識であることは共通認識であり、その視覚化がこの車止めとも言える。車を止めて降りるという儀式。そして本殿に近づくにつれて、緩やかなグラデーションと伴いながら切り替わっていくのである。意識を一瞬にして切り替えるのではない。そのグラデーションの一色目、段階的に深まる意識の変化を感じさせる第一歩が、この車止めなのかもしれない。

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